我が園の自慢 

子どもたちが毎朝歌う園歌

  作詞が 与謝野晶子さん

  作曲が 中山晋平さんです。

1. あさひがのぼる ひがのぼる

チッチチッチ とりがなく

新田神社の おおまえに

みんなそろって おがみましょう

2. やしろのすぎの木 くすの木も

そらまですくすく のびている

おててをふって むねはって

みんな大きく なりましょう

与謝野 晶子(よさの あきこ)
歌人・詩人・教育者・古典研究者・ジャーナリスト
文学美術雑誌「明星」に作品を発表、与謝野鉄幹と結婚。処女歌集『みだれ髪』で多くの注目を集め「明星」の代表歌人となる。その後も多くの詩歌集を刊行、「君死にたもふこと勿れ」や「山の動く日」などの詩も発表。幅広い活動をしながら、13人もの子供を産み育てたかたである。
中山 晋平(なかやま しんぺい)
作曲家

近代日本の歌謡史に燦然と輝く作曲家である。『てるてる坊主』等の作曲を行う。『カチューシャの唄』は松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。野口雨情と組んで大正9年から「金の船」に多くの童謡を発表した。代表作は『肩たたき』『兔のダンス』『雨降りおつきさん』『シャボン玉』『証城寺の狸囃子』等多くの童謡唱歌も作曲している。また、優れた流行歌も多く作っている。「銀座の柳」「東京行進曲」「船頭小唄」等である。

新田神社のご紹介

新田神社は神亀山(しんきさん)という亀の形をした小高い山の上にあります。

まつられている神様は天皇様のご先祖にあたるニニギノミコト様を中心として、ミコト様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。古い言い伝えによりますと、遠い神代の昔、高天原(たかまのはら)にいらっしゃいました太陽の神様アマテラス大神様が孫にあたるニニギノミコト様に私たちの住んでいる地上の世界を治めるようにお命じになりました。その時に稲穂をいっしょにお持ちしてお米をつくるようにおっしゃいました。

『斎庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく)』といいます。そこでニニギノミコト様はたくさんの神様をおつれになり今の鹿児島県の霧島にあります高千穂(たかちほ)峯におりられました。「天孫降臨(てんそんこうりん)」そこではじめてお米をお作りになり、続いて同じく今の鹿児島県の南さつま市にあたる笠沙宮(かささのみや)にうつられ、山の神様の娘であり大変美しいコノハナサクヤヒメ様と結婚されてその後、海路東シナ海を北上されて川内の地にくわれました。川内にお着きになられたニニギノミコト様は、この地に立派な千台(うてな)すなわち高殿を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からきています。

やがてニニギノミコト様はおなくなりになれて、お墓がつくられました。これが今の「可愛山陵(えのみささぎ)」です。そしてそのニニギノミコト様をおまつりするようになったのが新田神社のはじまりといわれています。もともとは社殿がなくお山そのものが神社であったとも伝えられ、新田神社の「新田」という名前には、ニニギノミコト様が川内の地に川内川から水を引いて新しく田んぼをおつくりになったという意味がこめられています。新田神社の名前が古文書ではじめてでてくるのは平安時代で、当時は「新田宮」と称していました。このころには薩摩国(さつまのくに)の守り神様として朝廷からも深い信仰をうけていました。

今から八百年程前、承安三年に火災があり、それまでお山の中腹にあった社殿が焼け失せてしまいましたが、この時も朝廷や幕府に伺いをたてまして現在の山頂に再興されました。島津氏が薩摩国に封じられましてからは歴代藩主の崇敬は殊に厚く、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿のもととなるものが造られました。明治時代にはいりましてからは、皇室の御崇敬を賜り、明治十八年に国幣中社となり、大正九年に昭和天皇様が皇太子の時御参拝いただきましてより皇族の方の参拝が九度におよんでいます。

年中御祭儀・行事


(一日)
元始祭(三日)
武射祭(七日)
七草詣

節分祭(三日)
紀元祭
(十一日)
新年祭
(十七日)

未社祭(二日)
早馬祭(春分の日)

新田八幡桜まつり(上旬)
五月
菖蒲祭(五日)


御田植祭(入梅の日の前の日曜日)
夏越の大祓
(三十日)


御神鏡清祭(二十八日)
夏越祭・六月燈(三十一日)


御宝物虫千祭(七日)

九月
例祭(十五日)
川内大綱引壇木祭(二十二日)
十月
抜穂祭(吉日)
御通夜際(十月最終土曜日)
十一
七五三詣(十五日)
新嘗際(二十三日)
十二
天長祭(二十三日)
除夜祭(三十一日)
年越しの大祓い(三十一日)

以上の外、恒例神事

◆朔日祭(毎月一日)

◆卯日祭(毎月初卯の日)

◆月次祭(毎月十五日)